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お知らせ2024.03.08

ドイツのろう女性史

「ドイツにおけるろう女性史」について公開しました。


  


ドイツにおける「ろう女性史(デフハーストーリー、Deaf herstory)」※1について、メラニー・ロイ(Melanie Loy)氏にお話いただきました。

 

※1 ろう女性を取り巻く歴史についてまとめたもの。「歴史」を「History(ヒストリー)=男性の物語、男性史」などと表すのに対して、女性の視点から「Herstory(ハーストーリー)=女性の物語、女性史」などと言い換えた「女性史」と「ろう(Deaf、デフ)」を組み合わせた名称。


(以下、動画の内容になります。)


これから紹介するのはマルガレータ・フットマン (サインネーム)。ろう者です。 シェーンヴァルデにて誕生しました。キール市の近くです。7歳の時、聾学校に、正式にはハンブルク市の私立の教育機関に入学しました。この学校もキール市の近くです。学校ではフィングステン教師のもとで学びました。彼はきこえる人でしたが、手話法で教育していたのです。マルガレータはとても飲みこみが早く理解力に優れていたため、その資質を買われ卒業後わずか16歳で補助教員として配置されました。初めてのろう女性の教員です。ドイツではハバーマスに次ぐ2人目のろう者の教員です。


マルガレータは補助教員として例えば、算数の基礎である四則演算を、宗教の時間には、信仰とは何か、また手話の構造や語彙などをきこえない子供達に教えました。1822年、驚くべきことにデンマーク王室より、彼女のきこえない子供たちへの献身的な教育に対して、功労メダルを授与されました。彼女の人柄は、好感が持て、信頼厚く愛情に溢れていました。きこえない子供達のやる気を促進、興味を起こさせようと尽力しました。


また、彼女は信仰心が厚く、宗教と禁欲的な宗教関係の書物に深い関心を寄せていました。絵画制作をこよなく愛し、作品はたくさん公開されました。1830年まで補助教員として働き、1年後の1831年、精神に疾患があると診断を下され、16年間、精神病院に入院しました。その7年後、シュレースヴィヒにて亡くなりました。



ケーテ・ゲオルクを紹介しましょう。1934410日に生まれます。一般校のギムナジウムに進みましたが11歳の時に感染症で失聴します。きこえていたので、手話を知らずきこえない人との交流もありませんでした。入学した聾学校はこれまでとは別世界のようで、ショックを受けます。しかし手話を覚え、状況は改善されていきます。一方でスポーツとも出会います。1953年、ブリュッセルで開かれたろう者の世界大会にて、4×100mリレーで新記録を打ち立て、世界女王になりました。結婚し3人の子供がいます。


ケーテはスポーツだけでなく政治活動にも長年取り組みました。常に念頭にあったのはドイツ手話の権利ときこえない人の人権です。様々な協会の活動に積極的に関与しました。1976年から2006年はブレーメンのデフハウスの会長に就任します。アルトバウ(築100年以上の古い建築)がろう者たちにも重要だと行政と交渉し成功します。また今日もあるいくつかの事業、手話通訳派遣、相談、集い、手話講座、講演会などの事業をおこしたのは彼女の功績です。1981年から2005年はブレーメン州のろう協会などでの要職を担います。ドイツろう連盟の理事会にも1年間出席し、ドイツ手話の法的認知に向けて、手話の重要性を訴え続けてきました。政治活動だけでなく、スポーツ界にも貢献しました。1991年から2003年まではドイツろうスポーツ協会の活動にも果敢に取り組み、女性スポーツの発展に力を尽くしました。


1983年から1999年の長きに渡り、ドイツろう連盟の執行部の役員も務めました。また、ろう者のための心理カウンセリングセンター「手から手へ」団体のスポークスマンにも就任しています。





政治やスポーツに関しての彼女の多大な貢献やドイツ手話の法的認知を目指しての長年の取り組みの結果、きこえない人々の生活の様々な面が改善されました。彼女のおかげで余暇の家も所有が認められたのです。また、ドイツ手話の法的認知や、ろう者の人権援護にも粉骨砕身しました。当時ドイツ手話(DGS)はまだ社会には浸透していなかったため、LBG(ドイツ語対応手話)のクラスが開講されていましたが、DGSクラスの開講を目指して奔走します。それ以外にも数多くの公的な仕事に取り組んできました。ろう連盟に関与していた時に教育や女性関係などの重要な書類作成に関わったことは価値高いことです。こうした長年の貢献や取り組みに対して、数多く表彰を受けました。例えばハインリッヒ シープマン スポーツ記念メダル受賞が挙げられます。1990年、ドイツろう連盟での長年の尽力に対してカール・ヴァッカーメダルを受賞しています。2001年には、ドイツ連邦厚労勲章を受章しました。大変名誉なことです。2012年には第5回カルチャーデーにて、ドイツろう連盟から最高賞文化賞も受賞しています。


今から紹介するのはゲルリンデ・ゲルケンスです。サインネームはこうです。194571日ハム市で生まれました。ドルトムントの近くです。両親、兄弟ともにろう者です。現在の夫と知り合い、結婚を機にキール市に転居し一人息子が生まれました。小規模の自助グループをおこし、1965年から1979年の間活動します。そして1年後の1980年にキールろう協会副会長に就任します。


キール市でいくつかの活動に着手し始めます。まず手始めに1980年シュレスヴィヒ・ホルシュタインろう協会の理事会に出席し、1986年に、州の第1委員長に就任しました。1983年、キール地域の聴覚障害者の促進のためにワーキンググループを設立、1987年ゲルケンスの指導下、完全にろう者だけで最初のデフセンターを設立し、2004年まで第一委員長を務めました。センターは今日もなお存在しています。目を引く業績は、最初の州立手話通訳者派遣センターをキール市に設立したことです。また、聴覚障害者のための社会福祉課を発足させました。


彼女の行動はシュレスヴィヒ・ホルシュタイン州だけに留まりません。ドイツろう連盟の執行部の役員に就任します。1989年のことです。女性部の代表になり、ドイツのろう女性運動を活発化させます。1993年キール市にて初めての女性たちのゼミナールを開催し、成功します。連邦女性省からの「聴覚障害のある女性はどのような困難に直面しているか」という照会に対し「アクション95」の着案とアンケートの作成に関わりました。ドイツのきこえない女性の状況に関する全国的な調査を行います。多くのきこえない女性たちは精神的、性的な虐待を受けてきていたことが、調査結果から明らかになりました。これより女性たちは男女平等に関して、より問題意識を持つようになるのです。


ドイツろう連盟の執行部の役員になった直後、1994年、副会長に就任します。ドイツ手話の法的認知をまず第一の課題として掲げました。1999年から初の女性会長に就任しました。1927年にろう連盟が設立して以来、初めての女性会長でした。彼女がろう連盟で果たした重要な業績は何かというと、ドイツ手話の法的認知を目指して心血を注ぎ、社会への法律の反映や手話の普及にも献身的な努力を続けたことです。社会や政治の面でのろう者の機会均等実現に向けて奮闘しました。


彼女のバイタリティ溢れる活動は、他のろう女性たちをもエンパワメントしました。シュレスヴィヒ・ホルシュタインのろう協会やろう連盟の女性会員数が増加し、より活動に意欲的になったのです。2005年からドイツろう連盟の名誉会長に着任しました。2007年ドイツ連邦共和国の一等功労十字賞の栄誉に輝きます。2012年エアフルトでドイツろう連盟が運営しているカルチャーデーが開かれ、これまでの政治的活動やドイツ手話の法的認知などの貢献に対して、最高賞を授与されました。


今から紹介するのはゲートルート・マリーです。サインネームはこう表します。1948831日生まれです。きこえる両親から誕生しました。彼女はろう者です。1965年から1979年まで 小規模な自助グループで活動します。




マリーは70年代半ば、きこえる人たちに手話を教える必要性を感じドイツ手話の法的認知はまだでしたが手話クラスを開設しました。ミュンヘンのフォルクスホッホシューレ(市民大学)で初めてろう女性として手話講師になりました。手話を教える中、基本的な手話学習者用の教材が不足していることを痛感し手話のイラストや画像を掲載した手話の教本を作成することに大変な時間と労力を注ぎました。またドイツ手話のミュンヘンの慣用句という資料を作成しろう者特有の表現を収集して、手話のイラストを描き、出版します。ろう者の情報格差を痛感し、きこえる人と同様に、情報格差を解決し、情報獲得するための方法を熟考し専門的な内容の講演などから情報を得る必要性を感じた彼女は、コミュニケーションフォーラム(kofo)を開催しました。1984年には、第1回目のkofoを開催し、好評を博しました。内容はディスカッション、講演会などです。


1年後の1985年、ジャーナル「自己認識」を発行します。執筆や編集は全てろう者の手に委ねられました。きこえる人に文章の校正を依頼することはせず、他者に手を加えられない状態で掲載しました。記事のテーマは多岐に渡り、ろう者、手話、文化などで、医学モデルの視点からではなくろう者自身の自覚やアイデンティティなどがテーマとして扱われました。毎月一度、夜の討論会を主催し、どのようにすれば自分の考えや主張を、相手に効果的に伝えられるかの技術を習得する修辞学の講演会に招待します。参加者のろう者たちは自信を高めます。彼女の目指すところは、ろう者としての自覚を目覚めさせ、ろう者たちの自信を高めさせることでした。


kofoやジャーナルの発行、手話講座の開講だけにとどまらず、ドイツ手話を法的に認知させるために、不断の努力を続けます。ドイツ手話の法的認知は、ろう者としての自覚や誇りと無関係ではないと説きます。社会面と政治的な面で、きこえない人々の機会均等実現が重要だと訴え続けます。




彼女はドイツのろうコミュニティのための情熱的な活動家でした。手話の権利、情報格差を埋めること、啓発活動、行政との交渉などは、すべて機会均等実現を目指すためでありました。手話のパイオニア的存在であり、手話講師や、手話教材作成に携わりまた辛辣な批判家であり、しっかりした持論を展開しました。2001年、ミュンヘンで開かれたカルチャーデーにおいて初めてろう女性として、ドイツろう連盟から最高賞文化賞を受賞しました。


医学博士のウルリケ・ゴットハルトです。生まれ育ったのはフランクフルト・アム・マインです。ろうの家族で成長し、難聴学校に通学したのち、普通校へ転向しアビチュアを取得しました。フランクフルトとボンの大学で人間医学を専攻手話通訳者なしで、学業を成し遂げます。1984年 医師開業免許取得し神経病学のための専門医研修も受けました。



書籍も上梓(じょうし)しています。「夫婦と家族の中での聴覚障害 –コミュニケーション障害の関係性と方法論」というタイトルです。






1992年からは、神経学と精神医学の専門医です。レンゲリッヒのLWLクリニックの中に聴覚障害者のための相談セクションを設立しました。1998年から2014年、組織変更後、主任医師から外来診療部門の指導的な立場である治療センターの院長の役職につきます。




2014年からはドイツろう連盟の委員になり、「健康」専門チームのリーダーに就任します。2014年ザビーネ・フリース教授の指導のもと、きこえない女性たちの虐待の経験や差別体験の最終報告書作成に携わります。性的虐待とカウンセリングに焦点を当てた自主的な活動と数々の講演をこなします。



これから紹介するのはザビーネ・フリース教授、サインネームはこうです。1965年、ヴォルフェンビュッテルに生まれます。ブラウンシュヴァイクの南です。家族はろう者です。ろう者ですが一般校に進学しました。アビチュアを取得、ドイツ手話とドイツ語のバイリンガルです。ベルリンの大学にて神学を専攻し、1997年牧師に任命されます。3児の母で既婚です。


ベルリンにて手話講座を開講します。聾学校や聴覚障害児の通う様々な学校で教鞭を取ります。フンボルト大学ベルリン、デフスタディ学科にて特任講師になります。デフスタディに関する幾つかの論文を寄稿します。2009年から2014年、ドイツろう連盟の女性全権委員および実行委員会のメンバーとして力を注ぎます。



前述のウルリケ・ゴットハルト医学博士の執筆協力も得て2014年、ザビーネ自身の指導下、「ろうの女性の人生における差別と虐待の経験」という書籍を出版します。





この本の出版後ろう女性への暴力とろう組織について博士課程で研究を進めます。2016年、手話通訳学でろう女性として初めての女性教授に就任します。ランツフートにある大学です。2018年ポツダムで開かれたカルチャーデーにて、文化賞受賞の栄誉に輝きました。





プレゼンター:メラニー・ロイ(Melanie Loy)

       Silvia Gegenfurtner

 

ドイツ手話 – 日本語翻訳:ルシル塚本 夏子(Natsuko TSUKAMOTO-LESSIRE) 

編集:小林洋子

 

2021年度竹村和子フェミニズム基金

「ろう女性史(デフハーストーリー、Deaf herstory)に関する調査研究

 〜 手話言語による自分史語り・ダイアログを通して 〜」(代表 小林洋子)に基づく成果の一部です。


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