人と人とのつながりを大切に。聴覚障害のある高齢者が安心して暮らせる社会を(2/4)

ろう運動における様々な歴史的場面に立ち会ってこられました。印象に残っている出来事は何でしょうか?

ろうあ連盟時代

 1979年(昭和54年)までの間、私は仕事を通して、『東京の夜明け』をみんなで一緒に経験できました。東京では、1970年(昭和45年)にスタートしたことがいっぱいあります。美濃部都知事との対話集会により、手話講習会事業や各区の相談員制度、字幕付き日本映画の製作貸出事業等々が始まりました。また、1973年(昭和48年)には手話通訳派遣事業も始まり、ろうあ者を取り巻く生活も大きく変わりました。

 1965年(昭和40年)代の運転免許裁判で有名な樋下さんはベットスクールの頃からの病友ですが、盛岡で入院していた頃に、彼は当時17か18歳でしたが、好きなバイクで見舞いに来たものです。あの頃は無免許で捕まってばかりで心配したものです。その頃は、ろう者が運転免許をとることは認められていなかったのです。彼はろうあ者でも運転できるのに、免許を取れないのは不当だと裁判をやることになり、松本晶行弁護士や全日本ろうあ連盟が支援活動を展開しました。その頃、1948年(昭和23年)から義務教育になったことで、ろうあ者の中にも知識が豊富な方々が増えていて、ちょうど青年期になっていましたから。

 また、一般の農家で耕運機を使うところが増え、都会でも印刷や洋裁などの仕事を自営でやる人が出てきて荷物を運ぶ車がないと困るとのことで、運転免許を必要とするろうあ者も増えてきました。そこに運転免許裁判が始まったので、全国的に支援活動が広がっていき、私も署名運動や裁判傍聴などに参加したりしました。その時は傍聴として裁判所に入るのはいいが、手話通訳の同行は認めないとか、色々ありました。

 結局、その裁判は負けてしまいましたが、連盟と大学研究者が聴者とろうあ者の事故割合の実態調査等を行い、その報告書が提出され、ようやく1973年(昭和48年)に補聴器付きで運転免許を取得することが認められました。しかし、道路交通法88条が撤廃されるまでに長い年月がかかりました。毎年、警察にろうあ連盟の役員が行って、要望を出して交渉して2008年(平成20年)にようやく改正されました。

 一方、婦人部は婦人部としての運動がありました。保育所の優先入所やベビーシグナル(乳児の泣き声お知らせランプ)の配布を厚生省に認めてもらおうと婦人部が一生懸命頑張ったのです。今の若い人たちは、昔と比べて便利な生活をしているけど、1965年(昭和40年)代以前の暮らしと、どのようにして権利を獲得してきたかの歴史を知ってほしいと思います。本当に昔はゼロだったのです。

 また、東京では1965年(昭和40年)代には、東京都民生局、今は福祉局にかわっていますが、美濃部都知事との対話集会がありました。毎月皆で通って、民生局の方たちと話し合いを続けました。そこで学んだのは、こちらが一所懸命誠意をもって説明すれば、相手も一生懸命答えてくるということです。お互いに真剣に話し合えば、お互いにわかりあえるということですね。

 今の若い人たちはそういう経験の場が少ないような感じがしますね。特に、きこえない人たちはしてもらうことに慣れてしまって、自分から相手に何かをして喜ばれるという経験が少ないのかもしれませんね。ろうあ者は少数派だから、もっとそういう経験を積んで出していくスキルを身に着けてほしいですね。

近年、「女性活躍」が注目されています。1975年(昭和50)年、全日本ろうあ連盟に婦人部(現:女性部)が設立された頃の状況についてお聞かせください。

昭和47年に長野県で開催された全国ろうあ者大会婦人の集いでの集合写真

 私が初めて婦人運動を知ったのは1968年(昭和43年)の頃です。福島でのろうあ者全国大会で、関西の婦人の評議員4〜5名が立ち上がり、「ろうあ連盟は男性だけで決めている。婦人も入れてほしい。」と発言し、各地での婦人部設立を要求しました。その時は、300人位の評議員の中でも女性は10名以下だったので、「聞いておきます」という回答で終わりました。

 でも、婦人の先輩方は諦めず、まず、近畿地区で婦人部がスタートし、続いて関東地区でも婦人部が設立されました。1970年(昭和45年)には、ろうあ連盟で初めての女性理事として吉見輝子さんが選ばれて、ろうあ連盟婦人部設立担当理事となり、全日本ろうあ連盟婦人部設立準備委員会が発足しました。

 1971年(昭和46年)には、第1回全国ろうあ婦人集会が京都で開かれて600人位集まったのですが、それは、「涙の集会」と言われました。家の中で虐げられる状態とか、子どもを産みたかったが(断種や中絶手術を施されて)産めなかったという人がたくさんいらして、そういう苦労話がいっぱい出された集会だったのです。

婦人部活動をしていた方々と共に

 自分の意思で結婚して子供を産むことができるようになったのは 1965年(昭和40年)代後半頃からです。1947年(昭和22年)に教育基本法に学校の義務教育化が入ってから、その時期に勉強した人たちが20歳を超えて成人した頃、ろうあ連盟青年部が盛り上がりましたし、青研結婚も増えて、その影響はとても大きいですね。それ以前については.話をきくだけでも人権侵害はいっぱいあります。

 こうして、婦人評議員たちが声をあげてから7年後の1975年(昭和50年)、全日本ろうあ連盟に婦人部が設立されました。みんなで本当に喜びあいましたね。



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