人と人とのつながりを大切に。聴覚障害のある高齢者が安心して暮らせる社会を(3/4)

近年、「女性活躍」が注目されています。1975年(昭和50)年、全日本ろうあ連盟に婦人部(現:女性部)が設立された頃の状況についてお聞かせください。

昭和47年に長野県で開催された全国ろうあ者大会婦人の集いでの集合写真

 私が初めて婦人運動を知ったのは1968年(昭和43年)の頃です。福島でのろうあ者全国大会で、関西の婦人の評議員4〜5名が立ち上がり、「ろうあ連盟は男性だけで決めている。婦人も入れてほしい。」と発言し、各地での婦人部設立を要求しました。その時は、300人位の評議員の中でも女性は10名以下だったので、「聞いておきます」という回答で終わりました。

 でも、婦人の先輩方は諦めず、まず、近畿地区で婦人部がスタートし、続いて関東地区でも婦人部が設立されました。1970年(昭和45年)には、ろうあ連盟で初めての女性理事として吉見輝子さんが選ばれて、ろうあ連盟婦人部設立担当理事となり、全日本ろうあ連盟婦人部設立準備委員会が発足しました。

 1971年(昭和46年)には、第1回全国ろうあ婦人集会が京都で開かれて600人位集まったのですが、それは、「涙の集会」と言われました。家の中で虐げられる状態とか、子どもを産みたかったが(断種や中絶手術を施されて)産めなかったという人がたくさんいらして、そういう苦労話がいっぱい出された集会だったのです。

婦人部活動をしていた方々と共に

 自分の意思で結婚して子供を産むことができるようになったのは 1965年(昭和40年)代後半頃からです。1947年(昭和22年)に教育基本法に学校の義務教育化が入ってから、その時期に勉強した人たちが20歳を超えて成人した頃、ろうあ連盟青年部が盛り上がりましたし、青研結婚も増えて、その影響はとても大きいですね。それ以前については.話をきくだけでも人権侵害はいっぱいあります。

 こうして、婦人評議員たちが声をあげてから7年後の1975年(昭和50年)、全日本ろうあ連盟に婦人部が設立されました。みんなで本当に喜びあいましたね。

 1981年(昭和56年)には全日本ろうあ連盟婦人部として、初めて文部省や厚生省と交渉を行いました。その時の状況をお話しください。

こだま会の祝賀会にて、縫田曄子氏を囲んで

 文部省や厚生省との交渉のきっかけとなったのは、埼玉の国立婦人教育会館での子連れ宿泊をめぐってのやりとりでした。

 1971年(昭和46年)の第1回全国ろうあ婦人集会の後、自分の意思で結婚して子どもを産む人が増加し、それに伴って様々な要求が出されました。保育所の優先入所(優先保育)やベビーシグナル(乳児の泣き声お知らせランプ)の給付、保母資格取得とかですね。そこで、ろうあ連盟を通して厚生省や文部省に要望を出していった結果、優先保育は1973年(昭和48年)頃には認められ、青少年への啓蒙活動対策としての副読本が発行されたりと、様々な取り組みをしていただくことができました。

 そういった取り組みを続けて10年目を迎えたので、関東で10周年記念集会を開こうということになったのですが、都内に子連れで宿泊できる場所が中々見つからなかったのですね。

 当時、女性のウーマンリブ運動の高まりとか国際婦人年であったこともあり、埼玉に新しく国立婦人教育会館が建ちましたので、そこを借りるのはどうかということになり、前年予行演習として関東研修会を開きました。ところが、当時の国立婦人教育会館は、文部省直接運営で「婦人達が日頃の家事労働子育ての苦労から解放されて交流する所です」と言われ、子連れの宿泊は認めてもらえませんでした。それでは困ると、ろうあ連盟婦人部として直接文部省に交渉に行くことになったのです。その時の婦人教育会館の館長も文部省の担当の方も婦人運動で有名な女性だったこともあって、最終的に理解していただくことができました。

 集会を開いた時には、子ども同伴の宿泊も受け入れてもらい、保育室やおねしょした時の替えシーツの用意や、ドアベルや振動式目覚まし時計の準備もなされて、私たちはとても嬉しかったものです。そこでの講演は、関東で初めて第1回集会を開いたときに講演していただいた婦人参政権運動で有名な市川房枝さんを10年目にまたお招きして開くことができ、みんなで喜び合ったのを覚えています。



>続きを読む「一人暮らし高齢者の増加が社会的課題に」