若林 亮氏(法テラス東京法律事務所常勤弁護士)
幼稚部から小学部低学年まで筑波大学附属聾学校(現・筑波大学附属聴覚特別支援学校)に通い、小学校高学年から一般校に通う。早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業後、読売新聞社校閲部にて10年間勤務。2008年退社、上智大学法科大学院に進学、2011年修了後、司法試験に合格。1年の司法修習を経て2012年に弁護士登録。2013年より法テラス(日本司法支援センター)常勤弁護士として勤務している。

Q1:大学時代はどんな学生でしたか?

 私は、幼稚部から小学部低学年まではろう学校に通っていました。当時のろう教育では手話を用いた教育に消極的だったこともあり、手話に触れる機会はありませんでした。私が、手話と出合ったのは、大学の手話サークルに入ってからです。サークルでの飲み会等のときに、手話で話して盛り上がったとき、みんなとスムーズにコミュニケーションが取れるって本当に楽しいと思えました。それまでは、筆談や唇の読み取りが主で、コミュニケーションに壁を感じていたからです。

 大学時代の活動ですが、私はあまり活動的ではなかったほうでした。最近、いろいろなろうの学生と会う機会が時々ありますが、学生が意欲的にスポーツや研究、手話に関わる芸術活動など色んな活動をしていることを聞くたびに、私も大学の時にもっと色んな活動をすれば良かったなと、羨ましく思います。当時の友人と会うと「大学生の時にもっといろんな国に行ったり、いろいろなものを見たりして、時間をもっと有意義に使ったら良かったね」と嘆息します。筑波技術大学の皆さんには、ぜひともいろんな活動に打ち込んでほしいです。

Q2:民間企業(新聞社)に勤めておられた時、どんなお仕事を担当されていましたか?

 読売新聞社では、校閲という仕事をしていました。昨年石原さとみさんが主演を務めた「校閲ガール」というドラマが放送され、校閲の仕事について初めて知った人も多いと思います。

 取材記者が取材した記事を読み、事実関係や人名など固有名詞が正確であるか、内容に矛盾やおかしな点がないか、読者の受け止め方やプライバシー面を含め新聞として問題が無いか、などを確認していました。また、記事の日本語についても、日本語として正確か、意味を正しく伝えているか、品位があるか、そういったところも意識しながら校閲していたと思います。

 入社して4年目の2001年に国際面を任されるようになりました。海外発のニュースを扱う紙面です。ちょうど当時、アメリカで同時テロが起き、世界情勢が非常に慌しくなりました。たくさんの海外のニュースが大量に飛び込むようになりました。日本と、米国、欧州等の間に時差があったことも忙しさに輪をかけました。米国が朝になるころに日本は深夜です。週の大半は夕方5時から6時くらいに出社していました。帰宅は夜中の2時とか2時半ということも普通でした。

Q3:新聞社に勤めておられていた当時、耳が聞こえないことについて周囲にどう説明されていましたか?また、仕事を進める上でどう意識されていましたか?

 採用試験のときは、事前に私がろう者であることを採用側にも伝えていました。面接は、筆談でのやりとりでした。

 職場では、編集局の責任者等との相談が必要になる場面がよくありました。編集局は同一階のフロア全体を占めるほどに広く、各部で働いている人同士でも内線電話で連絡を取ることが多くありました。また、印刷の締め切りがあるので、他の部まで直接相談に行く時間的余裕がないこともしばしばありました。ですので、周りの聴こえる校閲記者は、記事に関する問い合わせや相談は、電話を使っていました。

 しかし、私の場合は、電話ができません。入社当初は、直接各部と相談できるくらいの時間的余裕のある紙面、記事(小説や特集記事など)の担当でしたが、いずれは私も当日飛び込んでくる新しいニュースを扱うようになりたいと思っていました。

 幸いにも周りに理解のある方が多く、私の問い合わせたいことや相談したいことを代わりに電話で相手に伝えるという方法を考えてくれ、力を貸してくれました。また、早めに自分の足で直接各部に行き、担当者と筆談することもしました。各部とも電話で済む話でも筆談に応じてくれました。非常に理解のある職場だったと思います。

 読売新聞社は、現在私の知っている範囲では、聴覚障がいのある人は10人くらいいるのではないかと思います。同じ会社に聴覚障がいのある仲間がいるというのは心強くもありました。互いに仕事の悩みを相談したり、良い方法を一緒に考えたりすることもできたと思います。

Q4:弁護士を目指したきっかけは何でしょうか?

 田門浩先生(※1)が、きっかけです。田門先生も聴覚障がいがあり、手話でコミュニケーションを取っています。私が田門先生の存在を知ったのは、小学校高学年のころです。そのころに、田門先生が、弁護士になるために勉強をすべく、まずはろう学校から聴こえる高校に進学したということを新聞で知りました。

 その話を知ったとき、私は正直驚きました。そのころの私の弁護士のイメージは、米国の映画に出てくるような、裁判所など音声言語が飛び交う場面で弁論を尽くす人というものでした。まさにコミュニケーションがすべてではないかと思っていました。聴覚障がいがあり、耳での音声言語の聞き取りができず、発音発声も上手ではない私にとっては、当時、弁護士の仕事はとても無理だと思いました。ところが、同じような障がいを持つ人が、弁護士になりたいと宣言したのです。驚き、感嘆するほかありませんでした。

 その田門先生は、私が大学生のときに、司法試験に合格しました。そのニュースをテレビで見たとき、私は、田門先生は自分の夢を捨てなかったのだな、どんなに努力されたのだろうか、これから弁護士としてどのように活躍していくのだろうかと思い、そして、私も後に続けないだろうか、弁護士になりたいという気持ちが強くなりました。しかしながら、当時の司法試験の合格率は数%で、現在よりもはるかに難関です。就職するか、大学に残り受験し続けるかと悩みました。結局、就職の道を選びました。

 新聞社に入ってからもしばらくは司法試験をあきらめ切れませんでしたが、国際ニュースの担当になった頃からは忙しい日々のなか、しだいに司法試験から遠ざかっていきました。そうして、いったんは夢を捨てたことになります。

 しかし、新聞社で働いていたことが、かえってまた夢を追いかけたいと思うきっかけとなりました。新聞社では、毎日自分の担当した紙面だけでなく、印刷されたばかりの新聞や他の新聞を読むことも仕事の一つでした。そのなかで、たまたま田門先生の名前をまた見つけてしまったのです(笑)。その他にも、弱い立場にある人のために活動する弁護士の話を取り上げた記事を目にすることもありました。

 そのようななかで、以前、抱いていた弁護士になりたいという思いがまた強くなりました。その頃私は30代にさしかかりました。今後の道を変えるなら今しかないのではと大いに悩みました。ちょうどその頃から大卒である限り受験資格・受験回数の制限が基本的にはなかった司法試験が、法科大学院を卒業しなければ受験できず、かつ受験回数に制限のある司法試験に移行しつつありました。法科大学院の授業と会社の仕事を両立させることはきわめて困難でした。会社をやめるべきかどうか悩みました(※2)。

 ともあれ、法科大学院に合格しなければ何も始まらないので、法科大学院の受験を考えました。しかし、法科大学院に入るまでがまず大変でした。法科大学院の講義は、先生と学生が対話しながら問題点を発見したり、議論を深めたりしていくという形式の授業(ソクラテス・メソッド)が主であり、かつ、取り上げる内容は基本的に高度なものです。先生がずっと一人で話し続けるという授業と比べて、コミュニケーションが重視されています。私は、先生の音声言語を聞き取ることができないことはもちろん、他の学生の話を聞いたり、私自身が口頭で発言したりすることも困難です。講義についていけるのか、不安でした。願書を出す前に、いくつかの法科大学院に手紙を出して、自身の障がいの程度を説明し、相談できないか問い合わせたりもしましたが、返事がなかった学校もありました。今思えば、学校側もどのように対応すべきなのか、本当に戸惑ったのではないかと思います。

 ただ、幸い受け入れてくれる学校が見つかりました。上智大学法科大学院です。上智大学は、私が入学することになったとき、学部生や院生の中からボランティアでノートテイカーを集めてみましょうかと提案し、ノートテイクをシステムとして構築して下さいました。実際に募集してみたところ、100人以上が集まったと聞いています。そのお陰ですべての講義にノートテイカーがつき、私も何とか卒業することができました。

 また、クラスメートの助けもありました。法科大学院では、有志で集まって司法試験の過去問等を検討しあう自主ゼミというものもありました。友人は私もゼミに誘ってくれ、友人たちがノートテイクをしてくれました。また友人たちは、各自のノートパソコンで文字のみのチャットを使い議論をするという方法も考案してくれました。入学当初は、私自身は有志でのゼミに入るのは難しいのではと思っていたので、たいへんありがたかったです。

 2011年に無事に卒業することができ、その年の司法試験も何とか受かることができました。卒業も合格も、大学側の支援や無数のノートテイカーやクラスメートのおかげだと思います。感謝してもしきれません。その後1年間の司法修習を経て、2012年の12月に弁護士登録することができました。2013年から現在の法律事務所で仕事を開始しました。弁護士となってから田門先生にお会いしたときは、光栄であると同時に感無量でした。

 ところで、現在、日本には聴覚障がいのある弁護士は9人いるとされます。私が9人目のようです。アメリカには100人以上いるようです。私の後輩に今弁護士を目指している人が何人かいます。そこからさらに、10人目、11人目、最終的にはもっと増えてほしいと思っています。

Q5:現在、法テラスに勤めておられているそうですが、法テラスとは何でしょうか?どんなお仕事を担当されていますか?

 法テラス(日本司法支援センター)は、法的トラブル解決のための「総合的な案内所」で、国が作った公的な法人です。社会の中には経済的に余裕がないために弁護士に依頼できないとか、地元の身近なところに弁護士がいなくて頼めないとか、悩みを持つ人がたくさんいます。法テラスは、そうした悩みがなくなるよう、法的トラブルの解決に必要な情報を提供する情報提供業務、無料法律相談や弁護士費用等の立替を行う民事法律扶助業務を行っています。また、弁護士のほとんどいない地域にも法律事務所を設置したりして、どこでも法的サービスを受けられるようにすることも目指しています(司法過疎対策業務)。また、犯罪の被害に遭われた方を支援する犯罪被害者支援業務や、刑事事件の被疑者、被告人となった方に国の費用で弁護人を付ける国選弁護業務等も担っています。

 「法テラス」という名称は、「法律問題でお悩みになっている方に、解決の道を指し示すことで、その方のもやもやとした心に光を照らす」という意味で造られました。また、そうした方にとって、「テラス(太陽の当たる気持ちのよい場所)」のような場でありたいという意味も込められています。社会的に弱い立場に置かれた人のためにあるというのが、私なりの法テラスの理解です。私自身、弁護士になったら、弱い立場にある人に寄り添って一緒に悩み、より良い解決方法を一緒に見つけていきたいと思ってきており、法テラスは、まさにそうした弁護活動ができる場ではないかと思い志望しました。

 ここでですが、先ほど述べましたように、法テラスの民事法律扶助業務は、経済的事情により法的サービス(弁護士への依頼を含む)を利用することが困難な方のためにあります。そのため、サービスを受けられる人の対象は実は制限があります。毎月の月収、貯金その他の財産状況を考慮して、ご本人の収入が一定基準を超えないことが必要です。その他、法テラスの概要や利用条件、最寄の法テラス事務所については、ホームページがありますので、ご覧になっていただけたらと思います。

 ところで、私は、法テラスの内部で働く常勤弁護士(スタッフ弁護士)という立場にあります。常勤弁護士とは、全国各地の法テラスの事務所を法律事務所として、民事法律扶助、国選弁護といった業務のほか、司法過疎地域における法律サービスの提供を行う弁護士です。法テラスの中で働く弁護士というイメージです。このほか、地方自治体・関係機関と連携し、高齢者虐待防止ネットワークへの参加や学校等における法教育など、地域に密着した多様な業務も展開しています。法テラスの外で活躍する弁護士との間で取り扱う事案に大きな違いはありませんが、特に法テラスの趣旨を生かすために活動するというところが異なると思います。

 先ほど、地方自治体・関係機関との「連携」という言葉が出てきました。依頼者、困っている方の周りには、ケースワーカー、地域包括支援センターの担当者、民生委員、社会福祉士、精神保健福祉士、医師、警察官などの様々な専門領域の立場の人が寄り添っていることがあります。弁護士もその一人に過ぎません。そして、ご本人のお悩みや生活環境を一人の力だけで良い方向に持っていくことが難しいことがしばしばあります。そうしたとき、他のかかわっている方々と知恵や経験を活かしあったり、アイデアを出し合ったり、ご本人の信頼できる人を増やしたりして、法的問題だけでなく、他の生活上の問題等も含めてご本人にとって総合的な解決を目指すようにしています。これが連携です。司法ソーシャルワークの取組も法テラスの常勤弁護士に期待された役割の一つです。

Q6:弁護士といいますと、依頼者と会って相談を受けたり裁判に赴いたりする印象が強いのですが、その時のコミュニケーション方法はどうされていますか?

 私自身、法科大学院に進んだころや司法試験に合格したばかりのころは、どうやって依頼者や関係者とコミュニケーションを取るのか、裁判所で裁判官や検察官等とどのようにやりとりをするのか、具体的なイメージは固まっていませんでした。ただ、筆談でのやりとりは限界があると思っていました。たとえば、法律相談の場面です。法律相談では、相談者のお悩みになっている話を聴き取り、それに対応した必要適切な法的回答を行わなければなりません。しかし、相談者は一人ひとり様々(これまでの人生や人間関係も様々)であり、事案の内容も様々(ひとつとしてまったく同じ事案はないといわれます)です。30分という限られた時間で必要なことを聴き取り、必要なことを回答するのは、私の場合、筆談では非常に難しいと思います。裁判所でも、依頼者や証人の尋問が必要になったり、調停や和解期日という話し合いの場面でも話し合うべき内容が多岐にわたったりして、その場での迅速なコミュニケーションが求められますので、筆談では限界があります。

 私にとっては、弁護士としての仕事、コミュニケーションのためには手話通訳が必要不可欠です。法テラスは、私とほぼ同時期に手話通訳者を募集して採用してくれました。

 2013年、手話通訳者と一緒に仕事をスタートして、現在で5年目になります。法律相談は、手話通訳者と一緒に入り、依頼者の話を通訳していただき、私からの手話での話も通訳者に音声言語に通訳してもらうという方法でお受けしてきました。裁判所でも同様で、手話通訳者と2人で裁判所に行って、必要なやりとりをしています。

 ここで取材担当の小林先生から、法律相談のときどうやって依頼者の話をメモしているのか、その間は手話で話しているから手が離せないのではという質問がありましたが、確かに話をしながらメモすることは難しいですね。聴こえる弁護士であれば、聞いているときも話しているときもメモを取ることはできるのかもしれません。ただ、私の場合も、通訳者が依頼者の話を通訳している間であれば、私の手が空いていますからその間にメモを取ることは可能です。そのときに急いで、私自身の回答内容や気づいた点、あとで確認したい点などもメモします。走り書きになりがちなのと、もともと私は字が上手ではないので、あとで読み返した時に、自分で書いたのに読めないということがたまにあります(笑)。気をつけなければいけないですね。

 ところで、弁護士の仕事を始めたばかりのころ、戸惑ったことの一つとして、電話があります。弁護士の場合、特に今この場にいない依頼者や関係者等と即時に必要なことを確認し合ったり、伝え合ったりするときに電話が必要になります。適宜、メールやファクスで対応が可能な場合もありますが、電話はコミュニケーションツールとしてきわめて重要なことに変わりありません。毎日のように電話が必要になりました。ところが、私は、弁護士になるまで電話というものをしたことがありません。ですので、慣れるまでが非常に大変でした。

 私の電話は、手話通訳者と二人で一緒にするという方法になります。電話機を挟んで手話通訳者と対面で座り、手話通訳者には電話と繋いだヘッドセットを付けてもらいます(両手を自由にするため)。私が電話の向こうの相手に手話で表し、通訳者が手話を音声日本語に通訳して相手に伝えます。相手の話は、通訳者が聴き取り音声日本語を手話に通訳して私に伝えます。

 その際に、通訳者が意識的に行ってくれていることがいくつかあります。まず、電話でのコミュニケーションが不自然にならないようにしてくれています。相手方がまだ話しているときは私に「まだ、相手が話している」と教えてくれ、私が途中で会話を遮ることがないようにしてくれます。また私が考え込むなどして黙ったときは、沈黙が続くことがないよう、相槌でもいいから早くなにか話をするよう促してくれます。どうやら電話では、互いに相手の姿が見えない以上、受話器の向こうの沈黙が長いと相手方はどうしたのだろうかといぶかるということがあるようです。電話をするようになるまではそのようなことも想像できませんでした。

 次に、通訳者は、電話の相手の状況や気持ちをも教えてくれます。聴こえる人同士の通話の場合、互いに相手の顔は見えなくても声の調子や話し方、電話の向こうから聞こえる音などから相手の状況や気持ちを読み取って会話ができるのではないかと思います。聴こえない私にとっては、こうした方法で相手方の状況、気持ちを知ることは困難です(電話の会話の文脈や内容で分かることもありますが)。もし私が相手の気持ちが分からないまま電話対応をすると、相手方とのコミュニケーションが成り立たないおそれがあります。例えば、相手が不安になっているように思われるのに、何のフォローもしないまま話を進めると、相手の不安はいっそう強まるかもしれません。そのようなことがないよう、通訳者は、私に電話の相手方の状況や気持ちが分かるようにしてくれています。たとえば、相手が悲しんでいる場合、通訳者は自身悲しそうな顔をします。相手が元気で喜んでいる様子のときは、通訳者は笑顔を作ります。相手が不安そうにしているときは、通訳者は手話を小刻みにして不安そうな話しぶりを表現します。それを見ることで私は相手の状況や気持ちを考えながら、電話をすることができたと思います。

 相手の状況や気持ちを考えながらコミュニケーションを取る必要性は、電話に限らず、法律相談や接見(警察署等でアクリル板を挟んで、被疑者や被告人の方と弁護人が対面して話す)の時も、同様です。通訳者は、私から見て、通訳者自身だけでなく相手の顔も同時に見える場所に座ってくれます。法律相談でいえば、相談者の隣です。私は、通訳者の手話と相手の顔を同時に見られるので、相手の気持ちを考えながら、話すことができたように思います。これも弁護士になったばかりのころは、私自身が通訳のほうにばかり見てしまいがちで、慣れるまで時間がかかりました。

 一緒に仕事をしている手話通訳者は、法律に明るかったわけではありませんが、それで互いに仕事が困難になるということはなかったと思います。むしろ通訳者が、手話を介してコミュニケーションを適切にとるためには何か必要かをいつも考える人であったことがとても大きいのではないかと思います。現在、通訳者と私が、依頼者のために良い仕事ができているのであれば、それはこれまでの4年半近く、通訳者と試行錯誤を繰り返しつつ、一緒にいろいろな事案と向き合い、いろいろな人と会い、経験はもちろんコミュニケーションを積み重ねてきたからこそではないかと思います。

Q7:利用者には事前に手話通訳者が同席することを伝えるようにしていますか?断られたケースは今までにありましたか?また、電話のときはどうしていますか?

 事前に伝えることはしていません。相談者が入ってくるときは通訳者と2人で普通にお迎えします。当然ながら、相談者にとっては、弁護士一人と相談するつもりだったのですから、もう一人一緒に相談に入っている理由は説明します。そのときも簡単に「私は聴覚障がいがありますので、一緒に仕事している手話通訳者に同席してほしいと思います」と話すだけです。それで、今まで相談や受任を断られたということはまったくありません。

 電話のときは、通訳と一緒に電話していることは相手には伝えません。ごく普通に電話をします。ここで、通訳者と私にとっては感慨深いエピソードがあります。一度も会ったことがない人と電話で話をして、会う約束をしたという場面です。一緒に仕事をしている手話通訳者は女性なので、相手は、「若林は女性の弁護士だ」とお思いになることがあります。実際に会ったとき、「若林さんは男性だったのですか」と驚かれたことがありました。そのときは、通訳者との間で、「まったく普通に、自然に電話ができていたということだよね」と、互いに嬉しくなります。

Q8:弁護士になられて働き方はどう変わりましたか?現在、働く上で工夫なさっていること、意識されていることなどありましたら、教えてください。

 確かに、働き方は変わりました。新聞社では先に述べましたように、必要に応じて筆談または職場のほかの方の代わりの電話という方法でやりとりをしていました。

 弁護士になってからは、電話や法律相談、裁判所での対応に代表されるように、口頭でのその場での迅速なコミュニケーションが必要不可欠な日々となりました。コミュニケーションに手話が必要不可欠な私にとっては、手話通訳者と一緒に仕事をするというスタイルで仕事をしてきました(聴覚障がいといっても人によって様々で、他のスタイルが適している方もいらっしゃいます。上記のスタイルはあくまでも田門先生や私の場合です)。

 毎日、手話通訳者と一緒に仕事するようになり、相談者、依頼者、関係者、職場の先輩等実に数多くの方々と会ってコミュニケーションをとっているうちに、仕事の上では聴覚障がいのゆえでのコミュニケーションの壁というものを感じないことが増えてきたと思います。筆談等の場合だとコミュニケーションが滞ったり、互いに遠慮して伝え合いたいことを十分に伝え合えなかったりすることがあるかもしれませんが、手話通訳者と一緒の場合はそのようなことがありません。

 さらに、仕事上の責任も変わったと思います。新聞社のときも当然責任はありましたが、会社の中なので会社が守ってくれるという面があります。しかし、弁護士になると、専門家なので、基本的には自分の判断について自分で責任を取ることになります。また、弁護士の判断、行動ひとつで、依頼者の人生が変わることもあります。その意味では、責任は非常に重いと思います。しかし、依頼者とよく相談、打ち合わせ、意見交換をしつつも、自分の判断、考えで活動した結果、良い結果を引き寄せることができたときは、とてもやりがいを感じます。依頼者が「ありがとう」と言って下さったときは、「大変だったけど、良かった」と素直に嬉しく思います。

 次に、仕事上、工夫したこと、意識したことについてです。私の場合、特に通訳者との信頼関係を意識しています。通訳者と私は、5年前まではまったく知らなかった同士であり、お互いの性格や考え方、価値観も違います。その2人がいきなりペアで仕事をするのですから、当然ながら、お互いに戸惑ったり、考えていること、感じていることが食い違ったりすることもありました。もし、通訳者と私の信頼関係がうまくいかなかった場合、仕事にも影響が出るかもしれません。そうなると困るのはほかならぬ依頼者です。通訳者と私にとっては、思っていることは抱え込まずなんでも言い合ってきたことが、信頼関係を築くにあたり良かったのではないかと思っています。一方で、互いにべったりにならず程良い距離を置き、ときには冗談話もすることも信頼関係を長続きさせることができた要因の一つではないかと思います。そうして初めて依頼者のために良い仕事ができるのではないかと思います。依頼者から、「ありがとう」と言われると嬉しいのですが、もっと嬉しいのは、依頼者や関係者から「あなたたち2人に頼んで良かった」とか「(好意的な意味で)こんな弁護士(手話通訳者とペアで仕事をする弁護士という意味)もいるのか」とかの言葉をかけて下さったときです。依頼者たちから、通訳者とペアで信頼されたと思うからです。

Q9:今後の目標は何ですか?

 もう弁護士として5年目になります。もはや新米ではありませんが、一方で経験していない事例もまだまだ多くあります。今後もっと幅広く経験や研鑽を積み重ねていきたいと思います。

 そして、田門先生は、今年で弁護士20年目です。その背中は大きく、追いつくことなどできませんが、これからも、目標としていきたいと思います。

Q10:最後に、学生にメッセージをお願いします。

 昨今、様々な分野で活躍するろうの専門家や公務員が増えてきています。公認会計士や税理士、国税専門官、医師、獣医師、薬剤師、社会福祉士、精神保健福祉士など枚挙にいとまがありません。この大学(筑波技術大学)にいる学生達も含めて、耳が聴こえないから、うまく話せないからなどと小さくならないで、聴こえなくてもできることがたくさんある、聴こえないからこそできることもたくさんあると思って、堂々と胸を張ってほしいと思います。そうすれば、自ずと道は拓けてくるのではないかと思います。

 私は田門先生を見て弁護士になりたいと思いました。こうしたロールモデルと出会えたのは本当に幸運だったと思います。皆さんにとっても、会っている会っていないにかかわらず、いろいろな分野や世界でロールモデルとなる先輩のろう者がどこかにいると思います。ロールモデルとなる人がいない領域もあるかもしれませんが、そこではぜひ皆さんこそがロールモデル、パイオニアになってもらえたらと思います。

※1:田門 浩(たもん ひろし)氏
手話通訳士と一緒に仕事をする弁護士。東京大学卒業後、千葉市役所勤務を経て98年弁護士登録。現在、都民総合法律事務所に所属。

※2:司法試験の仕組み
現在は法科大学院を卒業しなくても、司法試験予備試験という試験に通れば、司法試験の受験資格を得られるようになりました。司法試験の受験回数制限も、私が受験した2011年時は5年以内3回まででしたが、現在は、5年以内5回です。

(インタビュアー:小林洋子)

◆ 小林洋子先生からのコメント

 新聞社で記者としての勤務を経て弁護士に転職したきっかけに、弁護士になったろう者の先輩の存在があったからというエピソードがありました。ろう者のロールモデルに出会ったり見知ったりすることで、その人の生き方を大きく変えることもある、そういうようなつながりは本当に大切なことだと思います。いろいろな人の人生を背負いつつ、新たなことにも挑戦し続けようとしている若林先生の姿は、きっと多くのろう者だけでなく、一般人にも勇気を与え続けていくことでしょう。若林先生、今回は忙しい中本当にどうもありがとうございました。

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